2024年03月08日

2024年3月8日金曜日

母の病院付き添い

かの法師は、抱いている赤子を放り投げて出家しましたが、姥捨山に放り投げてとはいきません。
報道写真家のリベンジを放り投げてしまいましたが、今の私にできることを自覚しています。
ドキュメンタリーの方法論は、まだある。
ラリー•クラークやナンゴールデンなどなど私という家族を拡大解釈しつつ写真展開している。
さがみはら写真新人賞同期の金山貴宏さんの作品の尊さをその時期にはよく理解できていなかったのを反省する今日このごろ。
勝負所だったんだな。



海外では報道写真やジャーナリズムの概念が変革されているようだ。
戦地の現地から発信するジャーナリズムだ。
沖縄でも辺野古など個人個人からの発信する新たな写真のあり方がある。
私自身の写真家の力不足を反省しつつも元来の「まれびと」願望の報道写真も気力•体力•財力が無いでは、いくら絵面やセンセーショナルに捉え直しても二番煎じを拭えないことを自戒を込めて反省してます。
当事者の視座と継続の重要性。
其処に私は活路を見出したい。
もちろん私たち写真する人は、写真の本質を問われる写真の時代にある。
サルガドもどき。岩合もどき。東松もどき。でんでん。
俺の写真は、サルガドより上手いんだぞ。
私の写真は、岩合より構図が芸術的なんだぞ。
花丸がいいか。二重丸がいいか。よしっよしっ。(ゴリラや熊のビンタは食らうなよ、なになに族の夕飯には、ならないでよ)
そんな次元の世界では写真学校でも成り立たなくなっている(というか写真学生の方が良いのだ。勢いというか。素直というか••••。数年以上の写真関連者は、疲れてるんじゃないかな)。
写真方法論やスタイル、写真の切り口でんでん。
ではなく写真本来の伝えたいことが問われ、写真本来の内容が吟味されながら写真の本質が問われ続けているのは、いつの時代も同じなのかもしれないが。

Posted by 豊里友行 at 10:49│Comments(0)
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